映画「チャッピー」(CHAPPiE)

監督:ニール・ブロムカンプ

問題提起度:★★★★★
チャッピー可愛い度:★★★★★

分類:SF映画
内容:AI・ロボもの

可愛らしいチャッピーの存在でこの映画の本質が隠れてしまいがちではあるが、この映画は大変深遠なテーマを扱った問題作だ。
以下に、様々な感想と照らし合わせながらこの映画の本質について書いてみたいと思う。


※ネタバレ注意※
この感想には映画「チャッピー」について、驚きの展開などに関するネタバレが含まれます。
ご注意ください。


無垢なAIを描いた作品だが、本質は「生命の尊厳」のありか

この映画を見た大多数の人々は、赤ん坊のような無垢なAI「チャッピー」が、自我を持ち成長していく物語であると受け取るだろう。
しかし、この映画の本質はそこではないと私は思う。

終盤、死に瀕したディオンはロボットの身体に「意識」を転送され、見事復活をとげる。
このシーンに衝撃を受けた人は多いのではないだろうか。
おそらく、この映画に対する評価が二分される要因がここだ。

この「意識」に関する描かれ方こそ、この映画の本質であり、主題だ。
意識の正体こそが「生命の尊厳」であり、肉体の有無にかかわらず永続するものであるとこの監督は表現しているのだ。

生命の尊厳=脳の電気信号配列

映画「ロボとーちゃん」の感想でも触れたが、「意識」「人格」「生命の尊厳」というものは一体どこにあるのだろうか。

私は、人間のコアは脳にあると信じている人間のひとりだ。
脳のシナプス、つまり電気信号の配列と海馬に刻まれた記憶こそ、その人をその人たらしめている根源だ。(すなわち、そのどちらかが失われたらそれはその人ではなくなると私は考えている。…この考え方が一般に受け入れられない考え方だということも承知の上でだ)
そして、それらを完全にコピーすることができたならば、その存在はオリジナルと同等の存在であり、「尊厳」を持った一個の生命といっていいだろう。

→映画「ロボとーちゃん」のネタバレ感想はこちら

ロボットの身体に対する葛藤を「あえて描かない」という英断

ディオンがロボットの身体に転送された際に、自分の身体に対する葛藤を描かないことに不満を感じるという人も多くいた。
しかし、私は監督は「あえて描かない」という選択をしたのだと解釈している。そして、その判断は間違っていなかったと思う。

もしロボットの身体に移植されたディオンやヨーランディの葛藤や不死性について描いてしまったら、それだけで映画が一本出来上がってしまう。
これをあえて描かなかったことを私は評価したい。
もし描いてしまったら、映画の主軸がブレブレになってしまうだろう。

あくまでも、この映画の主題は「生命の尊厳のありか」だ。

「チャッピー」を「怖い」と表現する人々

某映画感想投稿サイトにて、この映画を「怖い」と表現している人を多く見かけた。

私が読んだ限りでは、この映画を「怖い」と表現する人々には以下のように種別できた。

・有機的な肉体を持たない不死の人間が存在すると、倫理的/社会的にまずいことになる
・人間を簡単に複製できてしまうなどとんでもない、魂をなんだと思ってるんだ
・本人の許可なくロボットとしてコピーしてしまうのはいかがなものか?
・AI怖い
・ロボットはロボットであって、人間じゃない。ディオンもヨーランディも死んでいる

肉体を持っていない人間=生きていない、ニセモノと思いたい気持ちはわかる。

しかし、よく考えてほしい。
人間の尊厳は一体どこにあるのか?身体の形が変わったらその人ではなくなってしまうのか?身体の材質が変わってしまったら?

上に書いた通り、私は生命の尊厳とは脳の中に刻まれた情報そのものであると思う人間だ。身体の材質が変化しても、人格が保たれている限りその人の尊厳は生きている。

ロボとーちゃんの感想でも全く同じことを書いたが、もう一度強調しておこうかとおもう。

「虫歯を銀歯に差し替えたところで、その人の尊厳が失われるだろうか?失われはしないだろう」

余談:ニール・ブロムカンプ監督作品は、砂糖菓子でコーティングされた問題作

私は、このニール・ブロムカンプ監督作品を「第9地区」「エリジウム」「チャッピー」と三作続けて見てきた。
その中で、なんとなくこの監督の作風に共通したものがあると感じた。

監督が本当に言いたかった主題以外の演出が「全体的に雑」なのだ(褒めています)。

たとえば、この「チャッピー」の場合、画面映えする派手なアクションや大衆受けしそうな感動ポイントが随所に散りばめられているが、おそらく監督がやりたかったことはそこではない。それはあくまでも「興行的成功」のための都合上入れているものだ。
なので、ニンジャが唐突に自己犠牲精神を発揮してディオンたちを逃がそうとしたり、唐突にアメリカやヨーランディが死んだりする。

この映画で一番言わせたかったセリフは、私が思うにたぶんこれだ。

ディオン「君は“意識”だから、データと違いコピーできない。“意識”の正体は不明だ…だから移せない(Because you are conscious.You cannot be copied because you’re not data.We don’t know what consciousness is…so we cannot move it.)」

チャッピー「ボクが解明して“意識”を特定し、転送する。(中略)ボクに言ったよね、“可能性を奪わせるな”と(Chappie can figure it.I can know what it is, then I can move me.(中略)You said to me I mustn’t let anybody say that I can’t do something.)」

映画「チャッピー」より抜粋

サラッと「意識」のありかを特定して人間をロボットの身体に転送してしまったり、描き方によってはかなりの問題作(問題提起作)となりかねないが、それをうまく大衆受けしそうな要素という砂糖菓子でコーティングし、世に送り出しているのだ。
前述の「チャッピー」を見て「怖い」という感想を抱く人たちは、砂糖菓子の味に誤魔化されずにこの映画の本質を見てしまった人だとも言える。

→映画「エリジウム」のネタバレ感想はこちら

総評:生命の尊厳のありかを描いた最高傑作

チャッピーの可愛さに惑わされてはいけない。
この映画は、「意識」「人格」「生命の尊厳」のありかを描いた最高傑作だ。
ヨーランディの復活シーンで幕を閉じる、爽快な終わり方も実に素晴らしい。
私の価値観からすれば、これは最高のハッピーエンドだ。(アメリカさん…)

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