クレヨンしんちゃん
「ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」

テーマ性:★★★★★
監督の意図の成功度:★☆☆☆☆

 

注意!

この感想は、映画「ロボとーちゃん」に対してかなり否定的な内容となっております。


※ネタバレ注意※
この感想は映画クレヨンしんちゃん「ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」についてのネタバレを含んでいます。


SFにおける普遍的なテーマ「コピー人間問題」

SFというジャンルにおいて、昔から扱われ続けるテーマ「コピー人間問題」。
人間を、記憶や人格まで含めて完全なるコピーを作った場合の倫理的・現実的問題を扱っている。
(類似のテーマに「クローン人間問題」があるが、こちらはオリジナルの記憶を保有していないということでここでは別問題として扱う)

「コピー人間問題」を扱う作品におけるお約束

コピー人間問題を扱うにあたり、避けては通れない表現がある。
コピーとオリジナルを見分けるための設定づけだ。
もしも「コピー人間」がオリジナルをそっくりそのまま完全コピーされていたならば、どちらが本物であるかを争い合うこととなり、物語は泥沼の様相を呈することになるだろう。(それはそれで好きであるが、なかなかそこまで切り込んだ作品を目にすることができない)
そのため、物語を紡ぐ上での都合上コピー側には「コピーである」という記号化の処置がなされる。

代表的なところでいうと、
・寿命設定の違い(多くの場合、コピー側が短命であるという設定をつけられる)
・何らかの印をつける(多くの場合、コピー本人にはわからないような部分に印が施される)
・身体変化(有機組成の肉体ではなく、義体をはじめとする無機物組成の身体に移植されるなど)
などがあるだろう。
このことから、「ロボとーちゃん」はコピーされた側がロボットの身体を手に入れるという、身体変化タイプのコピー人間モノであることがわかる。

肉体を持たない人間は「ニセモノ」なのか?

某映画レビューサイトに投稿された数々の感想を読んでいると、「偽物だから別に死んでもいい」「ロボットだから壊れても何とも思わない」という感想が散見された。
どうやら、この世の一定数の人々は「肉体」を持たない人間のことを「人間ではない=ニセモノ」と認識しているようだ。だからこそ「死んでも何とも思わない」という感想が出てくるのだろう。

肉体を持たない人間の尊厳と「死」

また、「ロボとーちゃんが死ぬシーンで感動しました」という感想も多く見られた。
しかし、このような感想の大多数は「ひろし型ロボットが壊れた」ので「なんかかわいそう」程度の認識しかしておらず、あのシーンを「ひろしという人間の”死”」であると捉えている人は非常に少なかった。
ほとんどの人が、無意識に「肉体を持たない」=「劣るもの、ニセモノ」という認識をしていたのだ。尊厳のあるひとりの人間であると認識している人は、驚くほど少ない。

残念ながら、「肉体を持たない人間」について考えたことのある人は少ない。コアなSFマニアでもない限り、「人間=肉体を持つもの」以上の発想は生まれない。
だからこそ、ロボとーちゃんが死ぬシーンを見ても「なんかかわいそう」以上の感想が生まれてこないのだ。

人間の尊厳はどこにあるのか?

SFにおける普遍的なテーマのひとつに「肉体を機械化した場合、どこまで機械化したら本人ではなくなるのか」という問題がある。いわゆる、人間版テセウスの船だ。

現状、人間のコアは脳にあるとされている。私もそういう認識だ。
しかし、脳を完全に複製できる日が来たのならば、どうだろうか?
脳の配列を完全に電子情報として再現できる日が来たのならば?

私が生きているうちにそのような世界が来るとは思えないが、完全なるコピーがなされたのならば、それもまた「私」だ。
きっとコピーされた側の「私」も、オリジナル側の「私」も同じように思うだろう。
なぜならば、どちらも「私」と同じ思想と尊厳を持っているのだから。

「ロボとーちゃん」におけるひろしのコピーは、記憶も人格も完全に複製された「コピー」だった。
当然、人間の尊厳を持っていて然るべきだが、ただ「有機的な肉体を持っていなかった」という一点だけで、映画の鑑賞者から「ニセモノ」扱いされてしまった。
監督の意図としては、どちらも尊厳のある人間であると描きたかったのではないかと思う。
しかし、その試みはあまりにも早過ぎた。

肉体が機械に置き換わることに拒否感や恐怖感を持つ人が多いことは私も重々承知している。
当然の反応であると思う。
しかし、人間の尊厳の本質がどこにあるのかをよく考えて欲しいと思う。
虫歯を銀歯に差し替えたところで、その人の尊厳が失われるだろうか?
失われはしないだろう。

余談:身体変化タイプのコピー人間問題を好意的に描いた映画「チャッピー」

余談だが、肉体を持つ人間と肉体を持たない人間を完全に同等に扱った素晴らしい映画がある。
未視聴の方のためにクリティカルなネタバレは避けるが、ロボット・AI映画の名作として名高い映画「チャッピー」(2015)だ。
生命の尊厳のありかについての示唆に富んだ名作なので、「ロボとーちゃん」が気になった方にぜひ見ていただきたい。

→映画「チャッピー」のネタバレ感想はこちら

結論:子ども向け・ファミリー向けの映画で「コピー人間問題」を扱うべきではなかった

多くの人の感想を見た結果、残念ながら私はこの監督の試みは「失敗した」と感じた。
扱うテーマの重さと鑑賞者の層が噛み合っていなかったのだ。

「コピー人間問題」というSFにおける大いなる問いを描くには、物語があまりにもライトすぎ、尺も短か過ぎた。
そのため、映画のテーマや感動のラストシーンに至るまでの全てのストーリーが、安易なお涙頂戴映画を作りたいがための道具とされてしまったように私は感じた。
今作における敵役の個性の無さもそれに拍車をかけている。
せっかく深遠なテーマを扱っていながら、その倫理的問題を「なんかかわいそう」以上の解像度で描ききれなかった。
非常に残念なことである。

おそらく、興行収入的には成功した映画なのだろう。
クレしん映画の人気ランキングでも、上位に来ることの多い作品だ。

しかし、多くの人は「コピー人間問題」の本当の倫理的意義を理解できていない。
生命の尊厳はどこにあるのか。
それを考えることのできる人がひとりでも増えてほしいと切実に思う。


追記:
後日、某映画感想投稿サイトを見たところ、「ひろし死んでるじゃん!残酷!」という感想が増えていて嬉しかった。
まだこの世も捨てたもんじゃない。