「変身」
作者:フランツ・カフカ
胸糞度:★★★★★
後味悪い度:★★★★★
今回はSFではないが、人間の本質を突いた文学作品として名高いカフカの「変身」の感想。
この話を読んで私が真っ先に考えたのは、「主人公のグレーゴルはどうして毒虫になってしまったのか?」ということだった。
おそらく、「毒虫になった」というのは、「働けなくなった」「家にお金を入れることができなくなった」ということの比喩であろうと私は捉えた。
おそらくグレーゴルは、働き詰めの生活で体を壊してしまったのだろう。そう、毒虫にならずとも、ある日突然病気になったり怪我をして働けなくなるなど、そういったことはよくある話だ。
グレーゴルは、ひとりで家族4人を支えてきた。
母親は病気がちであり、妹は学校に行くわけでもなく、かといって働くわけでもなく、放蕩している。
そして、本来家を支える役割を担う(であろう)はずの父親は、働くことを放棄し、食べて寝るだけの生活を送っている。
しかし、彼らは決して働く能力が無いわけではない。
グレーゴルの死後には、それぞれが職につき、自立した生活を送るところまで描かれている。
グレーゴルの支えがなくても生きていけるはずだったのだが、グレーゴルにすべてを押し付け寄りかかることで、自分たちは一切負荷を被ることなく、安穏とした生活を送ってきわけである。
これは明らかに異常だ。
彼らが虫になったグレーゴルを他人に見られることを恥じているのは、そのことを自覚していたからではないだろうか?
すなわち、グレーゴルの変身は自分たちの責任であることを暗に認めているからこそ、他人の眼に触れぬよう幽閉してしまうという反応になるわけである。
さて、この家族の異常性は明らかであるが、このような状況の家庭は珍しいものなのだろうか。
私はそうは思わない。
家族にかぎらず、何人かの人間が寄り集まれば、必ず弱い人間に負荷が生じる。
この家族の場合、経済的に寄りかかるという形で負荷が生じていたが、経済的なやり取りのない集団内でも、精神的、肉体的な負荷が生じ得るだろう。
グレーゴルが早々にこの家族を諦めて家を飛び出していたのならば、一体どうなっただろうか。
誰も毒虫になどならず、甘えることもなく、それぞれが独立した人生を歩むことができただろうか。
それとも、第二の毒虫が発生しただろうか。
私は後者ではないかと思う。
寄りかかることの快適さを知ってしまった人間は、少しでも寄りかかりやすい柱があれば簡単に寄りかかる。
人間とはそういうものではないかと思う。
グレーゴルの死後、家族は安定した生活を送るかのように締めくくられているが、このままで済むとは思えない。
彼らが、グレーゴルの変身の原因から目を背け続けている限り、
すぐに第二の毒虫が発生し同じ末路を辿るだろう。
なんとも後味の悪い作品であるが、それだけに色々と考えさせられる名作である。