映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」感想

美麗グラフィック度:★★★★★
思想の完成度:★☆☆☆☆

先日、映画「アバター」シリーズの第二作目にあたる「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」を見てきた。

鑑賞からしばらく経ち、気持ちも落ち着いてきたので感想をまとめてみたいと思う。

はじめに断っておくが、全体的にかなり否定的な内容の感想となっている。

ご注意願いたい。


※ネタバレ注意※
この文章には映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」(以下「アバター2」)に関するネタバレが含まれています。


正直、この映画には色々と言いたいことが多すぎて一つの記事にまとめるのが困難だ。

まず、第一作目で主人公がナヴィ族とエイワの力を借りてようやく成し遂げた「転生」を、海軍たち全員が人格移植というお手軽方法でいとも簡単に再現してしまった(もうそれ「アバター」じゃなくない?)ところ。次に、大切な儀式のひとつだった翼竜と絆を結ぶ場面すら簡単にこなしてしまったところ。

また、言語の問題。森の民だけではなく、海の民の標準語まで英語になってしまっている。これは明らかな文化侵略だ。
森の民が英語を喋るのは、第一作目でグレイスの教えが根付いた結果だと好意的に見ることはできるが、海の民までもが英語を喋るのは(映画的都合を加味して考えても)おかしいだろう。

例を挙げればキリはないが、第一作目で感情的に大切だった要素が無視されてしまったように私は感じた。

 

しかし、それは瑣末なことだ。

鑑賞した人ならば嫌でも気付いたと思うが、この作品にはあからさまな強い主張が込められている。
捕鯨(特に日本の捕鯨文化)に対する批判的主張だ。
これでもかと言うほどに捕鯨の残酷さが描かれている。

その一方で、私は魚を弓で射るシーンが心に引っかかった。鯨の命の描き方と、魚の命の描き方がどうも釣り合わないのだ。

というわけで、今回は「鯨と魚の生命としての尊厳の差」をテーマに書いてみようと思う。

作品に思想を込めることは悪いことではない

まずはじめに、「作品に思想を込めること」自体を批判している人たちが少なからずいるが、私は作品に思想を込めることには好意的である。
作品とは思想の具現化であり、裏を返して言うと思想のない作品は味のないスポンジと同等であると私は思っているからだ。

もし監督が「鯨さん可哀想!」と思ったのならばそういうメッセージを込めた作品を作ればいいと思っているし、それ自体を悪いことだとは思ってはいない。

なので、今回はその「思想」自体の危うさやいびつさについて書いていきたいと思う。

鯨には共感するが魚には共感できない人たち

「鯨さんが可哀想だから殺すのダメ!」

このようなムーブメントを誰もが一度は聞いたことがあるかと思う。
「動物は」ではなく「鯨は」と、なぜか鯨だけに限定するこの思想を疑問に感じた方も多いだろう。

どうやら、一部の人は動物の中でも特に「鯨」のことだけを特別視する傾向にあるようなのだ。

その代表的な理由が「鯨には知能があるから」だという。

彼らが鯨以外の動物のことをどう思っているのか定かではないが、とりあえずこの映画「アバター2」を作ったジェームズ・キャメロン監督も同様の思想を持っているようだ。

「知能があるから殺してはダメ!」という思想の背景

なぜこのような思想が生まれたのか興味があったので少し調べてみたところ、どうやら某世界的宗教の価値観が現実にそぐわなくなってきたことから発生したカウンターカルチャーのようなのだ。

(※ここから不確実な情報源による記述が入ります。ご了承ください)

いわく、某宗教の世界観は「人間とそれ以外」というごくごくシンプルなものだった。
「人間」と「人間以外」の間は明確に線引きがなされ、「人間以外」のものは「人間」のために与えられた消費物であると考えられてきたようなのだ。

ところが、近代において「進化論」というものが発見され、某宗教の「人間とそれ以外」という世界観は根底から壊されてしまった。
人間も数多の動物の派生の一つに過ぎず……、すなわち人間と動物は「兄弟だった」と判明してしまったのである。

そんな背景もあり、「動物は神様(※)が人間のために作ったモノからいくらでもぶっ殺して食べまくっていい」
……と本気で信じ込んでいた某宗教の教徒的には、人間と動物が兄弟だったという事実は大変にショッキングなことだったようだ。

(※ここで言う神様は、一神教におけるThe GODのことで、日本人が考える「神様」とは別のものである)

また、その中でも鯨は特別大きな頭脳と高い知能を持っていることが研究で判明したことで、動物の中でも「鯨だけは特別」といういびつな思想が生まれるに至ったのだ。

(余談だが、「インテリジェンス・デザイン論」などを持ち出して進化論に対抗しようとするのは、旧来の某宗教的価値観を壊されたくないが故の反抗である)

鯨に銛を撃つシーンは悲しみに、魚に弓矢を射るシーンは感動になるいびつさ

鯨が特別な理由はお分かりいただけたと思う。では、魚はどうだろうか?

作中、亡くなった長男との感動の思い出として、長男が初めて狩りに成功するシーンが流れる。
魚を弓矢で射るシーンだ。

それまで、散々鯨に銛を撃つシーンを残酷に描いてきたのにも関わらず、魚に矢を突き刺すシーンを感動の一場面として描く監督の感性に私は大変ショックを受けた。
銛を撃たれてのたうつ鯨にはあれほどの共感を見せたのに、矢を受けてのたうつ魚には共感しない。できない。

映画「アバター」シリーズには、「生命を奪う」ことに対して象徴的なシーンがいくつかある。
第一作目の「オオカミ」を狩るシーンを思い出して欲しい。
祈りの言葉を口にしながら、苦しませず素早く殺すように主人公は教えられる。

ところが、魚にはトドメは刺さない。

魚はいくら殺しても苦しめてもいい。
オオカミは殺してもいいけど、なるべく苦しませないように。
鯨はそもそも殺すなんてとんでもないし、苦しめるのもダメ。

このダブスタ加減が私には本当に恐ろしく思えるのだ。
魚も鯨もどちらも同じ命ではないだろうか?なぜ「命の尊厳」に差をつけて考えるのだろうか。
殺しても良い命悪い命があるという思想自体私には受け入れ難いし、危ういことだと感じる。
なぜならば、こんなことを書いている「私」のことを「殺してもいい命」だと判断される危険性があるからだ。

魚と鯨の境界はどこだろうか?
それを考えるたびに、某宗教の教義が頭をよぎるのだ。

「汝、隣人を愛せよ」

さて、鯨は、魚は、そして私は隣人としてカウントしてもらえただろうか?

余談:作品鑑賞における宗教的・文化的背景理解の重要性について

このように、作品という「思想の具現化」を理解するには、文化、特に宗教に対する理解が重要となる。
背景の理解ができなければ、作品はただの表面的な映像となり、真の理解からは遠ざかる。

今回、監督が表現しようとした「捕鯨の残酷さ」は、某宗教の教義に反抗する形で派生したひとつの思想であるといえよう。
私は無神論・無宗教者なので某宗教の教義を理解できているとは言い難いが、少なくとも「鯨は特別」という結論に至るまでの過程を知ることができた。

結論には全く賛成できないが、そのような思想を持つ人間がこの世にいて、そのダブスタっぷりに疑問を思わないということは実に興味深い。おそらく、彼らの中ではダブスタではなく何らかの筋道立った論理が通っているのだろう。

残念ながら今回の映画「アバター2」の中でその筋道を知ることはできなかったが、私も命の重さと尊厳の差について考える良い機会になった。

最後に、それでも今後のシリーズに期待する理由

ここまでボロカスに書いてしまってなんだが、それでも私はこの映画「アバター」シリーズに大きな期待を残している。
文句を言いながら、なんだかんだ私は最後まで見届けるだろう。

その理由は、キリとスパイダーの存在だ。

自分が他人と違うことに悩むナヴィ族と人間のハイブリットであるキリの苦悩。
人間でありながらナヴィ族に育てられ、人間にもナヴィ族にもなりきれないスパイダー。

この2人の行く末にアバターシリーズの未来があると私は考えている。

なお、鯨肉は牛肉と並んで私の大好物であり、これからも食べ続ける所存である。

以上。