映画「トゥルーマン・ショー」感想

コミカル度:★★★★☆
ミステリー度:★☆☆☆☆

今回は、様々な命題を含んだ名作「トゥルーマン・ショー」の感想を書いてみたいと思う。


※ネタバレ注意※
この文章には映画「トゥルーマン・ショー」に関するネタバレが含まれています。


映画の主題

この映画には、いくつかの主題が含まれている。

テレビ番組の中でも絶大な人気を誇る「リアリティショー」への警鐘。
神と人間の悲哀と反逆。
愛と束縛。
自由と不自由。
親子の愛憎。

どれも魅力的な主題ではあるが、今回は「親と子」「自由と不自由」という観点でこの映画の感想を綴ってみようと思う。

映画に登場する二種類の「親」

この映画には二種類の「親」が登場する。

・愛はあるが、子供に恐怖を与えコントロールする親
・愛はあるが、子供の命に責任を持たない親

この二種類だ。

1番目の親は、番組プロデューサーのクリストフが該当するだろう。
トゥルーマンに様々な恐怖症や外の世界への絶望を植え付け、コントロール下に置こうとする親だ。

2番目の親は、視聴者たちだ。
トゥルーマンのことを見守り、時に応援こそすれど、最終的には何の責任も負わない。番組が終われば即座に興味を失い、さっさとチャンネルを変えてしまう。

愛ゆえに子供に恐怖や絶望を与え、コントロール下に縛り付ける親

このタイプの親は、表立って目に付かないだけで実際にはとても多く存在する。意識的に、あるいは無意識に子供に恐怖や絶望を植えつけて自立を阻み、いつまでも自分の手元で「何もできない子供」のままでいるようにコントロールする親だ。
あの手この手で親のコントロールが効かない「外界」の恐ろしさを子供に言い聞かせる。

子供の頃に、親からこんなことを言われた経験はないだろうか?

「家の外には危険がいっぱいだ」「知らない大人は悪い人だ」「都会は怖いところだ」「大人になると、おまえには耐えられないような辛いことがいっぱい起こる」「失敗は恥ずかしい」「一度でも失敗したら、取り返しがつかない」「誰もおまえを助けてくれない」「ほらね、失敗すると思った」「人間は裏切る」「信じていいのは家族だけ」

そしてその後にこう言う。

「でも大丈夫、パパとママが守ってあげる」

これは、暗に「従わなければ守って(愛して)やらない」と子供に伝えているのと同義だ。
こうして恐怖によって親に依存した子供が出来上がる。

このコントロールは、子供が幼いうちは子供を守る防壁として作用するが、子供が成長してからも同様のコントロールを続けてしまう親が少なからずいる。
そうすると何が起こるだろうか?
体だけが大人になり、自我が成長しなかった悲しい人間ができあがる。

この映画「トゥルーマン・ショー」に出てくるプロデューサーのクリストフは、あの手この手でトゥルーマンに外界への恐怖を植え付けている。
わかりやすいのが、島を取り囲む「海」に対する恐怖心を植え付ける場面だろう。
これにより、トゥルーマンは外界への憧れを持ちつつも、恐怖という防壁によって身も心も完全に幽閉されることとなる。

さて、この「恐怖」を植え付けるという行為は一見「愛のない親」が行いそうな行為に思えるが、「愛のある親」でも行ってしまう恐れがある。
この映画のプロデューサーも同様で、トゥルーマンへの愛ゆえに恐怖を植え付けていることがわかるセリフがある。

「私は彼に普通の人生を送るチャンスを与えているんだ。君らが暮らす世界は…病んでいる」

映画「トゥルーマン・ショー」より引用

子供は親のエゴによってこの世に生まれる。
親の身勝手と愛がドロドロに混ざりきった時、このような歪んだ愛が生まれる。

愛はあるが責任は持たない親たち

これはわかりやすいだろう。
トゥルーマンのことを我が子のように愛し、一挙一動にはしゃぐ親のような存在、視聴者。
傍観者を決め込むトゥルーマン・ショーの視聴者たちは、責任を負いたがらない親の典型だ。

自分の夢や希望をトゥルーマンという子供に託すだけ託して自分たちは安全圏から見守る。自分は疲れもせず傷つきもせず、本来自分が担うべき苦悩を子供に肩代わりさせ、成果だけを掠め取っていく親。

あなたの身の回りに、子供を自慢することだけが生きがいになってしまった人を見たことはないだろうか?
あるいは、かつて抱いていた自分の夢を子供に押し付けている人を見たことは?
彼らがこのタイプの親だ。
子供が自慢の種にならなくなったら、いとも簡単に興味を失う。

彼らのグロテスクさを強調しているのは、なんといってもラストの一幕だ。番組終了と同時に、即座に興味を失って他のチャンネルに切り替える無関心さ。我が子のように愛しておきながら、飽きたら味がしなくなったガムのように捨てる残酷さ。

余談:「愛」はポジティブな感情ではない

ここまで「愛」「愛」と連呼しておいてアレだが、私は「愛」という感情をポジティブな意味では捉えていない。「愛」とは物事への執着の一形態に過ぎず、世間一般的な「愛は素晴らしい!」という意見には全く賛同できない。
愛とは相手を、あるいは自分を縛り付ける鎖であり、枷である。

それは親子関係でも恋愛関係でも変わりはしない。

子供や恋人の手足を「よかれと思って」「愛の名のもとに」もぎ取ってしまう人間は驚くほど多い。
これはポジティブなことだろうか?そんなことはあるまい。

不自由からの解放、そして新たな不自由

最終的に、トゥルーマンは親のコントロール下から離れてドアの外=自由な世界へと出ることになるわけだが、これはハッピーエンドなのかどうか意見が分かれるところだろう。

人は自分のことが不自由だと感じるからこそ自由を求める。
「自由」が幸福な状態足り得るには、その大前提として「不自由」が存在する必要があるのだ。

トゥルーマンの場合は、親=プロデューサーからのコントロールに不自由さを感じていた。
しかし今、トゥルーマンは親からのコントロールを振り切って外へ飛び出した。

もちろん、これで人生が完結するわけはないというのは誰にでもわかるだろう。トゥルーマンの人生はまだまだ続く。

さて、トゥルーマンは、あるいは私達は次に何に対して不自由を感じるのだろうか?
人生はまだ序盤の序盤だ。
また新たな「親」がトゥルーマンの、私達の手足をもぎ取りに来るかもしれない。

人生に不自由がある限り、人の旅は終わらない。
ある意味、不自由を感じたからこそトゥルーマンは人生を次のステージに進められたとも言えよう。

閉じた壁のその先に

私に不自由を感じさせているものはなんだろうか?
この映画を見てから、ずっとそんなことを考えている。

不自由からの脱出こそが人生の原動力なのかもしれない。
不自由の正体を見つけられた時、私は次のステージへと進めるのだ。

あなたを狭い世界に閉じ込めているモノの正体はなんだろうか?
もしかするとそれは、あなたの身近にいる「親」のように愛してくる存在かもしれない。たまにはそんなことを考えてみるのも悪くないだろう。

では、会えない時のために。
こんにちは、こんばんは、おやすみ!